ヨーロッパ留学と学位取得のご報告、ロシアによるウクライナ侵攻下での欧州生活について

更新日 2022.8.25

平成22年卒 貞升彩

 2020年秋より、欧州委員会の大学院Erasmus Mundus Joint Master of Arts in Sports Ethics and Integrity (MAiSI)に留学しておりました平成22年卒の貞升彩です。無事に学位を取得し先月帰国しました。

 

 

 コロナ流行1年目に欧州に渡航し、以降ベルギー、チェコ、スペイン、フィンランド、ギリシャで生活しました。各国のコロナ事情に翻弄されつつも、なんとか日本とはだいぶ違うヨーロッパのCOVID生活(欧州では“COVID”と呼びます)に慣れていきました。少しずつヨーロッパが日常を取り戻し、それを謳歌し始めた頃、ロシアがウクライナに侵攻し戦争が始まりました。

 

 

 2月24日の開戦当初はスペインのバルセロナ中心地、カタルーニャ広場のそばに住んでおり、侵攻に反対する大規模なデモが行われているのを見ました。2月28日からフィンランドのヘルシンキに移る予定に元々なっており、予定通り引っ越しをしました。バルセロナの空港では早速モスクワ行きの便がキャンセルされており、着いた先のヘルシンキではフィンランドの国旗以上にウクライナ国旗を目にし、顔に落書きされたプーチン大統領の紙が街には貼られているのを見かけました。私の住んでいたアパートの前の公園には小さな子供によって描かれたと思われるウクライナカラーの国旗の絵がありました。振り返ると、ちょうどフィンランドのNATO加盟申請が国内で議論されている緊張感の高い時にフィンランドにいたことになります。

 

 

 ムーミン好きの私はヘルシンキからムーミン列車に乗り、タンペレという街にあるムーミン美術館に行きました。ムーミンが平和を切望した作者ヤンソンによって第二次世界大戦前後に描かれたのは有名な話です。美術館には大きなムーミンの家の模型が飾られているのですが、その窓は世界の様々な地域の建築様式が使われています。フィンランドとロシア間の冬戦争の結果、一部がロシア領土となったカレリア地方のカレリア建築も含まれています。ロシアの中でも最も自然が美しいとされるカレリアは、ほぼフィンランド語のカレリア語を母国語とし、今回の侵攻前までは国境をまたいでフィンランドとロシア間で人の行き来があった地域です。今は人の往来も限定されていると言います。フィンランドを愛し平和を願った作者ヤンソンが緊張が高まっている両国間の今の状況を見たら、きっとひどく悲しむだろうと思わずにはいられません。

 

 

 タンペレ駅を挟んで反対側にはレーニン博物館というフィンランドとロシアの冬戦争の歴史や外交関係を知ることができる小さな博物館があります。歴史の展示ブースには、2000年代の最後の記述として、“これからもフィンランドはロシアの文化などを尊重し良い外交関係を続けていく”と書かれていました。残念ながらこれまで積み重ねた外交努力はすべて無碍にされ、その後に追記される文言は何だろうかと考えると悲しくなります。博物館は平日の昼間にも関わらず、若い人々たちも訪れており、関心の高さがうかがえました。

 

 

 私のクラスメートは西側諸国といわゆるその同盟国出身者は少数派です。ウクライナやベラルーシの学生はおりませんが、21名中3名がロシアからの学生でした。スポーツインテグリティという、つまりはスポーツの不正をただすというのを目的とした学部であるため、学部開設当初から、組織的ドーピングなど課題の多いロシアからの学生が毎年多く在籍しています。開戦当初、欧州メディアは戦争ばかり、時には残酷な映像を報道する一方で、私のクラスでは侵攻に関する話題はタブーなのか、関心がないのか、そのことを表立って口にする人はほぼおりませんでした。私には他のクラスメートが何を考えているのかわからず、後にロシア政府寄りの考えを持つ人もどうやらいることが分かると葛藤を感じるようになりました。

 

 

 戦争が始まりヨーロッパでは物価が高くなりましたが、私がそれで生活に困窮することはありませんでした。ロシアの仲間は制裁によりクレジットカードが使えなくなり母国からの送金が途絶え、国籍故、家を借りるのも難しくなり、差別を受けるようになりました。国際法を無視し隣国に攻め入ったロシアの蛮行は決して許されないと思う反面、なかなか自分の思うことを自由に言えない、それを許される環境で育っていないロシアの友人がダメージを受け弱っていく様を見るのはなかなかつらいものがありました。開戦から半年、元々西側思想だった一人の学生はついに西側に対する否定的な言葉を並べるようになりました。そして、“もうヨーロッパにはいられない、(戒厳令が今後引かれれば)徴兵の可能性はあるけれどそれでもロシアに帰る”と言うようになりました。侵攻の長期化に伴い、侵攻に対する考えの違いが生じ始め、友人関係にも影を落とすようになりました。

 

 

 偶然なのですが、昨夏スポーツの国際機関でインターンをしたこと(所属したインテリジェンスチームで仕事として与えられた調査の対象国がロシアでした)と自分の卒論(トランスジェンダーアスリートの世界的動向の調査、および旧ソ連含めた権威主義的国家による性別詐称)のため、私は昨年の夏から旧ソ連諸国やロシアのスポーツを研究、調査していました。そのため、ロシアのスポーツとその闇には割と造詣がでてきた中起きたウクライナへの侵攻でした。“スポーツは社会の鏡であり、スポーツに社会は反映される”という言葉があるように、ロシアのスポーツ事情の調査から知り得たロシアの姿やそこに根付く思想は、今回の侵攻の中にも垣間見え、そうか、やはりスポーツには社会の構図が縮小されているのだと実感しました。

 留学生活が終わり、本当はヨーロッパで研究を続けたかったのですが、残念ながら継続できず今は日本で過ごしております。ありがたいことに、私のトランスジェンダーアスリートに関する研究を必要としてくれるスポーツ競技があり、今はその競技の関連の方々に協力をさせていただいています。以前より格段に国内スポーツ界におけるジェンダー課題への意識が高くなっているように見受けられ、この現象は東京オリンピックのもたらしたソフトレガシーの一つだと個人的には思っています。その競技での試みは、日本の中では初めての取り組みになるであろうことと、広く国外に視点を移せば、アジアの中でも初めての取り組みになろうかと思います。

 

 

 今回この留学記を書くべきかとても悩んだのですが、コロナ禍にヨーロッパに留学し、その間に侵攻が始まり、多くの非西側諸国の仲間に囲まれて過ごした特にこの半年の出来事は、日本人がそう多く経験することではないと考え、ここに公開させていただきました。あくまでこれは私の個人の思いと経験であります。留学については、心残りも多いのですが、とりあえず今は日本でできることを探し研究に取り組んでいきたいと思います。

 

写真1 バルセロナのカタルーニャ広場で2月27日に行われていたウクライナへの侵攻に反対するデモの様子

 

写真2 ヘルシンキからタンペレ行きのムーミン列車

 

写真3 レーニン博物館入口

 

写真4 ヘルシンキ港付近の建物とウクライナ国旗