名誉教授の独り言(210) 正解
更新日 令和1年12月30日
術後7週で大学受診しました。主治医の山口先生がインフルエンザとかで休みであり、若い先生が代診で診てくれました。山口先生から装具は今日まで、と言われていたので、今日で装具も松葉杖も終了と自分で若い代診さんに言い、やっとアキレス腱縫合部の保護のための装具がoffになりました。78歳とは言え、もう術後7週なのでアキレス腱縫合部も十分に付いていると思っています。
今回、大学を受診し直ぐに山口先生からギプスで治療しますか、手術にしますか、と聞かれた時に間髪を入れず「手術して下さい」と答えました。ギプスで治療すると骨折は少しぐらいはズレて癒合し、アキレス腱は少し細い状態で付くか、場合によっては付かないことも在ります。もう78歳ですし組織の再生能力は大変落ちているでしょうから、付かない時はそれで仕方ないですが、出来るだけ良い状態で治ってほしいと思い手術を希望しました。こうして治ってみると手術をお願いしたのは正に正解だったと思っています。
思い出すのは安美錦関です。一昨年の7月場所でアキレス腱断裂をしたのに直ぐに手術を受け9月場所には出場したのです。初日に砂被りに座っていたら安美錦関が最前列の私の前に落っこちてきました。その姿を見て整形外科医としてはこれでアキレス腱手術部周囲の癒着が取れ、明日から相撲が取れやすくなるのではないかと思いました。案の定、7勝8敗だったように記憶しています。ちなみに私のアキレス腱手術部の周囲はまだ癒着しています。そのうちもっと良くなるだろうと思っています。
今回足関節内果骨折のscrew固定とアキレス腱断裂縫合術を受け、術後ギプス固定などを受けましたが、辛かったことは拘束されることでした。手術翌日に目が覚めたら左膝以下がギプス固定されていたことでした。それから山口先生に診てもらうまで、どこに行ったらこのギプスをcutして貰えるかばかり考えていました。朝、山口先生に「このギプスをモナカにして下さい(両脇で縦に切ること)」とお願いしたら、すぐにcutしてくれました。年を取るというのは考え方も含め余裕が無くなるのだと改めて考えさせられました。ギプスをモナカにしてもらってもそれほどゆるゆるになる訳でもないのに精神的に辛くならないようでした。
今回の経験で知った事をもう一つ。人間というのは言われても言われなくてもやれるようになったらやるという事です。骨が付く前には骨折部に体重は掛けないでしょうし、アキレス腱が付く前にはアキレス腱に負荷を掛けることはしないと思いました。今まで色々と患者さんに言ってきましたけど自然の摂理に従う方が良いと思いました。お陰様で、装具を外し、松葉杖なしでもなんとか歩けています。
明日からスポーツクラブに行きます。
3月からゴルフに復帰します。
名誉教授の独り言(209) 経過良好
更新日 令和1年11月21日
今回の怪我についてガールフレンドである内館牧子氏にメールしたら「整形外科専門医が階段から落ちて骨折なんてテレビドラマにもならない」と言われてしまいました。私としても「不覚にも・・・。」と思っていたので、返す言葉もありませんでした。術後は経過良好であり、後11日で左脚免荷も解除される予定です。1昨日大学受診で入浴許可が出たので、帰宅後に入浴したら、その後湯船が垢だらけでした。洗髪もして大変気持ち良かったです。実は1週間前にバイト病院で我慢が出来ず、看護師長さんに洗髪をしてもらったのですが、痒い所には手が届かず、プロの床屋さんは流石だと思い、それを師長さんに言ったら「来週再チャレンジさせて下さい」と言われてしまいましたが、これで今週は遠慮できるので良かったです。師長さんには仕事外の洗髪をしてもらったのに失礼なことを言ってしまい申し訳ございませんでした。
78歳の名誉教授は大変我儘でショウもない患者でした。入院中にモニターは外すし、持続点滴を中止させるなどでどうしようもない患者でした。退院時に勤務室に寄り「お世話になりました。我儘な患者で済みませんでした」と言いましたら看護師さん全員で爆笑していました。どなたも「お大事に」とは言ってくれませんでした。
昨日、息子が帰宅し診察してくれました。アキレス腱もしっかり付いていて、内果も大丈夫という事で、松葉杖歩行も診て貰ったら「大丈夫、後は転倒しないように」と言って貰い、その後は大変気が楽になりました。
もう78歳で、このところ色々とありました。何度か自宅で夜間に転倒し、去年の暮れには上がりかまちで転倒し、その後、食欲不振、歩行障害が出て、精査の結果、慢性硬膜下血腫が判明し、今年の3月4日に開頭手術を受け全治しました。老化現象か認知症の始まりなのか判りませんが、それやこれや、外傷性のものだけではなく、内科的なことも含め、気を付けなければならないと思っています。
名誉教授の独り言(208) 不覚にも足関節を負傷
更新日 令和1年11月12日
大変ご無沙汰いたしておりすみません。10月末に日本整形外科学会でシンポジストとして講演し、その準備やら疲れを取ったりで「独り言」を長く休ませて頂きました。
実は10日ほど前に、その日は大変疲れてしまい夕方7時ごろにマイスリーを飲んでからメールをしなければならない人がいることを思い出し、メールが終わった後に、2階に行って寝ようとして階段を上っていて足を踏み外し転落してしまいました。翌日、左足関節がものすごく腫れてしまい痛くて、近医で診て貰ったら内果骨折との診断で、手術をした方が良いが保存的にも加療可能との診断で、保存的治療を希望しました。ギプスシーネをしてもらい帰宅、2日ほどしたら腫れも少なくなりましたが、そこでよく診たらアキレス腱が断裂しているのではないかとの疑いが出てきました。そこへかつてのお弟子さん2人がお見舞に来てくれたので2人にも診察してもらったらアキレス腱断裂の可能性が高いという診断で、翌日MRIをしてくれるとこお約束を頂きました。翌日のMRIでアキレス腱はやはり切れており、「じゃー手術してくれるか?」と聞きましたら「先生の手術は大学のお仕事です。紹介状を書きます」との事で、午後に大学を受診したら即特別室に入院。主治医から「治療は保存的、手術のどちらを希望しますか?」と聞かれたので即座に「手術」と答えました。折角こんなケガを負ったのだからこれを何か良い方に捉えられないかと考えた結果です。受傷から大学に入院するまで3日間今回の元凶であるマイスリーを辞められたので、これも良い点だと思いました。入院中・退院後もマイスリーは辞められませんが、服用を夜10時以降にすることが出来たので、これでも良いかと思っています。保存的に治療した内果は少し骨折部が空いていましたが、手術をしてもらえばより完璧に治るだろうとも考えました。アキレス腱断裂も78歳の老人の線維芽細胞は若い人ほど活動的ではないと思うので手術の方がより確実に治るだろうとも考えました。今回は家内に全面的にお世話になっていますが、将来的には攻守逆転する日も来て私が介護に回る日も来るかもしれないので今回は出来るだけ完壁に近い形で治してもらおうと考えました、それやこれやで手術になりました。
翌日朝から希望して全身麻酔で手術。内果骨折をスクリュ―固定(完璧な整復固定でした)、アキレス腱縫合(がっちり縫合してもらいました)、膝下のギプス固定で目が覚めました。受傷した左脚に体重をかけてはダメとの事で車椅子か両松葉杖での移動を命じられました。78歳の老人のみじめな姿です。病室ではいろいろと我儘を言い、看護師の方々にご迷惑をお掛けしました。術後に主治医と相談した退院日の1日前に退院の許可を頂き、家に帰ってきました。玄関から家の中に入る段差が大変でした。でも家は良いです。入院中に感じた虚無感がありません。狭い家の中は車椅子移動で十分に用が足ります。
昨日、中学時代の同級生5人で年に2~3回やっている昼食会の連絡が入ったので、「今回は左足首を痛めてしまったので欠席」と連絡したら、ひと騒ぎになったようで、その会は延期となりました。
今は日々体調が回復しているのを感じます。神様が少し休めと命じているように思います。2~3日後には富津迄行って非常勤医師を勤めるつもりです(送り迎えをしてくれるという事なので)。後1ヶ月もすれば不自由なく生活できるのではないかと思っています。そうしたらまた復活します。
名誉教授の独り言(207) 医師の生涯研修
更新日 令和1年9月20日
私はもう78歳ですが、先日の日曜日に夏季研修会に出席してきました。その前日にゴルフに行ってきてしまいましたので休養を兼ねてでした。ゴルフの成績は前半が50で後半16番が終わって12オーバーでした。17番パー3は2 on 1put,やっとの思いでパー、18番でパー4のところを第3打でガードバンカーに入れてしまい、今日も100を切れないかと諦めかけていましたが、バンカーショットは3mぐらいのところに寄り、下りのパットを残してしまいました。毎晩ベッドのそばのパット練習マットで練習していることを思い出し打ったパットが入ってしまい、辛うじて49で上がることが出来、99となり、なんとか100を1打切ることが出来ました。
研修会の話です。スポーツクラブで、一般会員に医学研修会の話をしたら、「先生もまだ勉強するんですか?」と言われてしまいました。確かにこの年になって,まだ勉強する職種は珍しいように思います。でも医学は日進月歩です。私が教授だった頃には無かった新薬、治療法や手術法も沢山あります。知識として取り入れてないと、少しだけ医師をしている身としては対応できません。でも、この年になると「この演者の言っていることは変だな、言葉足らずかウソだな」と思う事もしばしばです。
このように研修会に出席するのは、多くは専門医資格の継続に必要な研修単位を取るためです。この専門医資格を取っても,現在は専門医でない一般医が診ても、専門医が診ても診療報酬は全く同じです。専門医資格を取っても社会的、経済的に何ら特典はありません。自分に自分で「あなたは良い医者ですよ、専門医ですよ」と囁くだけです。そのような制度では、専門医資格の取得・継続に困難が生じてしまいそうです。アメリカはその点はっきりしているようです。
専門医制度の創立や継続を含め日本の診療報酬支払制度は、資本主義社会の中の唯一の共産主義と言われています。診療報酬は研修1年目の医者が診ても、ベテラン教授が診ても同じです。それが専門医なのだと専門医機構は言っています。でも何の報酬も無い経済制度は多くの人に受け入れられるのはむつかしいでしょうし、そのような専門医制度は。経時的に消えて行ってしまうのではないかと案じています。やはりなんらかのご褒美をあげるべきだと思います。このままにして「学生時代に勉強しない,試験は辛うじてパス。このような医師は卒業後も勉強しません。でも、この手の人は商売上手でお金持ちになる人が多くいます。専門医制度を何等かの報酬に結びつかせないと、大変なことになるように思います。
私は今期の専門医資格の期間が切れたらもう更新はしません。医者そのものも辞めるかも知れません。
名誉教授の独り言(206) 第63回守屋杯
更新日 令和1年8月22日
先日、第63回守屋杯が袖ケ浦カンツリー俱楽部袖ケ浦コースで開催されました。毎日続く猛暑の中、冠として私の名前が付いているので最初から欠席という訳にはいかず、「行くけど当日の状態で参加するかどうか決めたい」、と幹事には言っておきました。
この「守屋杯」は63回も続いていて、大したものだと思っています。実は私が教授会で教授に選出されたのは恩師井上駿一教授が肝臓がんでご他界された翌年の昭和63年4月でした。その時の講師だった渡部恒夫先生が私が教授に選出されたのを喜んでくれたのか、好きなゴルフができると思って企画したのかは知りませんが、5月の連休に「第1回守屋杯」を袖ケ浦CC袖ケ浦コースで開催するという企画をしてくれました。私は5月末頃に辞令を頂くまでは「教授予定者なので全ての行動を慎重に行うように」と事務から注意されていましたので、もちろん不参加でした。でもこの会が年に2回やる、というのは千葉大整形外科初代教授だった鈴木次郎先生がお始めになった「次郎杯」の時にそうであったので、それを継承したものでした。以後年2回開催されていてもう63回です。32年目という事です。次郎杯がくたびれてきたころに2代目井上駿一教授のお名前を頂き「駿一杯」を造りましたが、井上先生自身がゴルフをあまりお好み出なかったこともあり、いつの間にか消失してしまいました。
私自身は教授を19年、退任してから12年、その間に胃癌を2回、左そして右の慢性硬膜下血腫の手術を相次いで受け、良くここまで持ったなという感じです。最近はゴルフが大変下手になってしまいました。なかなか100を切れないゴルフになってしまいました。病歴と78歳という年齢を考えると仕方ないかと考え最近ではもうゴルフを辞めようかとも考えていました。8月始めの第63回守屋杯では56,49でした。翌週は練習だけをするつもりで新袖コースに行ったら旧知の仲間に会い、一緒に回ろうと言ってくれたので、お言葉に甘えたら53,49でした。今年の3月に右慢性硬膜下血腫の手術を受けてから術後経過が思わしくなく、月に2回位のペースでラウンドしていたのですが、思い切ってのゴルフが出来ず、7月は梅雨寒が続いたこともあり、昨年7月のエピソード以来、車を手放し運転は一切していないので家で何となくウダウダしていました。
車が無いという事で一番不便なのはゴルフ場に自分の車で行けないという事です。7月下旬に同伴競技者になった89歳の方は東京からJRで鎌取駅迄来て倶楽部バスでコースまで来るという事で「大変でしょう?」と言ったら「89歳の老人が自分で運転して東京から袖ケ浦CC迄来たら何時事故を起こすか判りません。JRと倶楽部バスで来るのは当前です」との事で大変感心し、私も見習おうと思いました。8月中旬から何となく体調が良くなり、前回の「独り言」を翻して、もう一度練習を積んで復活したいという気になってきました。車の無いことは気にせず、昨日もバスで10分、バス停から徒歩10分の練習場に行く気になり練習してきました。汗びっしょりで練習してきましたが、ドライバーが7月ごろより力強く飛んでいました。これから週1の練習あるいはコースでのラウンドを続け、復調したいと願っています。昨日の練習では、私のゴルフのルーチンやフォームを昔の姿に戻しやってみたらそれなりに良い感じでした。ゴルフというのは試行錯誤を続けながらやるものでしょうが、上達するのにはそれなりの時間がかかりますが下手になるのはあっという間です。9月になったら週1のラウンドを続け、80歳になったらエージシュートを目指したいと思っています。
名誉教授の独り言(205) 雀ちゃん
更新日 令和1年8月1日
今年は梅雨寒が長くやっと終わったと思ったら猛暑の毎日が続いています。皆様は御元気でしょうか。そのような猛暑の中、昨日は誘ってくれる人がいてゴルフをしてきました。年のせいか体力が減退し、腰部脊柱管狭窄症性腰痛などもあり、苦労しながらのゴルフでした。更に昨日はゴルフ場に着くのが遅くなり、ちゃんと練習せずに本番に臨みました。第1打でチョロをしてしまい、その後もチョロ、チョロで第5打でバンカー越えのグリーン狙いの1打を58度wedgeを打ったら左上腕二頭筋長頭腱を痛めて(部分断裂)しまい(白鵬と同じ怪我です)、以後1日中左肩が痛くて痛くて・・・でした。暑さは厳しく毎ホール水分補給をし、2~3ホールごとに水道水を頭から被り熱中症の予防に努めました。肩の負傷のせいかちゃんと当たらないし、飛距離も激減しティーショットはフェアウエイまで届かないことも多く、往生しました。汗びっしょりになり、お昼には着替えをしてさっぱりしましたが、昼食も完食できず、しぶしぶ午後のラウンドに向かいました。午後も残り何ホールかを数えながら何とか18ホールを52,54で回ることができ、熱中症にもならずに済みましたが、終わったら疲労困憊で帰宅後も少しビールを飲んで少し夕食を頂き、バタン・キューでした。8月6日に守屋杯がありますのでそれは参加予定ですが、8月はその後のラウンドは辞めようかと思っています。年を取るというのは辛いものです。車の運転は昨年7月で辞めましたし、ゴルフは28歳の時に初ラウンドし、その時のスコアーが57,57でした。Best score は38,37でした。ホールインワンも2回しました。自分がハーフ50を切れないゴルフをするようになるとは思ってもいませんでした。今のゴルフはただ苦痛だけです。もう充分に楽しみました。今は何時ゴルフを諦めるか迷っています。
家にいる時間が長くなり、その時間潰しも兼ねて、バードウオッチングのために我が家の猫の額ほどの狭い庭に家内が小鳥のエサ台を作ってくれました。家内がお釜を洗って残ったご飯粒をそのエサ台に置いてくれます。雀ちゃんがそのご飯粒を食べに来てくれます。あたかもどこかから見張っていたかのように、すぐに来てくれます。入れ替わり立ち替わりに来ます。最近はムクドリが来て、雀を追い払い食べています。それぞれの雀の識別はほとんど出来ませんが、先日他の雀とは異なる顔付の雀が来ました。雀には必ずある頬の黒斑が無く喉の黒斑も小さく全体として白い感じの雀で他の雀よりデブでした。早速に図鑑で調べたら中国北部からモンゴルに多く棲息している「ニューナイスズメ」ではないかと思いました。我が家では「シロデブ」とあだ名をつけました。
ご飯粒の代わりに食べ残したパン屑をあげることもありますが、雀はパンよりご飯の方が好みのようです。ご飯粒は置くと直ぐに何羽もの雀が来て食べ終わってしまいますがパンにはそれほど食欲が湧かないようです。やはり日本雀(?)でしょうか。特にカビの生えたパンは全く食べませんでした。でも我が家のエサ台に来る雀たちは概して太っています。多分栄養満点なのではないかと思っています。もう年なので、このような楽しみの方が体には良いのかも知れません。
名誉教授の独り言(203) 人生100年時代(3)
更新日 令和1年6月19日
前回の(202)は原稿をupしてからトランプ大統領の写真を入手したので、それをupしました。見ていない人は見て下さい。
それでは「人生100年時代」の続きを書きます。
インターンが終わったら千葉大学整形外科に入局するつもりでした。自分が整形外科医としてやっていけるかどうか自信が無かったので整形外科医局に行って「自分は力持ちではないのですが、務まるでしょうか?」と、そこにいた医局員に聞きました。「大丈夫だよ!」と答えてくれた人が小松崎先生で、何と医局で一番の力持ちの先輩でした。ところが入局直前の1月に鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞にて急逝されてしまいました。困ってしまい国立千葉病院鈴木五郎院長(当時、親友の一郎の父親)のところへ相談に行きました。五郎先生は「自分が整形外科をやりたいのならやったら良い。教授なんて誰だって同じだよ」とお答えくださいました。結局教授不在の医局に入局しました。当時は全国で整形外科の振興期でした。多くの関連病院で整形外科医を求めており、医局長から7月から関連病院に出張するように言われました。ただその病院数が12だったので同期入局者は13名であったため私は大学に残ることを認めてもらいました。その分、医局の雑用係を一手に引き受けさせられました。手術の日は出血量の測定、術者の汗拭き、術後の手術器具の洗浄・油拭き・手術器具入れへの格納など一人でやりました。
7月の教授会で井上駿一助教授が教授に選出されました。
その晩に医局の風呂に皆で入ったのを覚えています。その後、井上教授の命令には余り従わなかったのに、イギリスに留学させて下さり、帰国したら講師にして下さりました。井上教授の専門は脊椎外科でしたが、私は関節外科を専門として勉強・研究をしていました。松井先生が名古屋市立大学の教授になり、玉置先生が和歌山県立医大の教授になった後に井上教授は私を助教授にして下さりました。その10ヶ月後に井上教授が急逝され、自分としては大変困った立場になってしまいました。田舎に亡くなった父が買ってあった土地があり、兄名義だったので、そこを借りて開業することも考え、下見にも行きました。でも何人かの教授が私を押してくれたので、思い切って教授戦に立候補しました。色々ありましたが結果としては選出して下さり、もともと教授になろうなどとは全く思っていなかったので、何とも分不相応の教授という事になってしまいました。教授に選出頂いたときは46歳と11ヶ月、任命頂いた時が満47歳でした。それからが大変でした。でも世の中がバブルに入ったころであり、何でも押せ押せで過ごすことが出来ました。教室員に自分が興味を持ったことを積極的にさせていたら何となく守備範囲の広い教室になって行きました。私は1年間イギリスに留学させて頂き英語は全く不自由なくなりましたので、教室員にも希望する人は出来るだけ留学するように取り計らいました。お陰様で60歳の時に日本整形外科学会学術集会会長を始め多くの学会長を務めさせて頂きました。更に千葉大学定年直前に「横綱審議委員」を仰せつかり、最後の2年間は委員長までさせていただき、身に余る光栄でした。結局、千葉大学医学部整形外科教授を19年間務めました。いろいろと苦労はありましたが楽しく充実した教授としての人生でした。その後13年経って現在78歳です。もうボケ老人です。でも先週は袖ケ浦CCで49,49でした。自慢話はこの辺でお仕舞にします。
名誉教授の独り言(202) 令和元年大相撲夏場所
更新日 令和1年5月31日
「人生100年時代」を1回お休みさせて頂き、令和元年夏場所の事について書きます。色々とありました。
- 「朝乃山」の優勝です。朝乃山ってそんなに強い力士だった?「今場所、朝乃山は急成長しました」という、という様な解説者のコメントを耳にしましたが、ああ勝ち越しそうなんだな、としか受け取れませんでした。途中、佐田の海戦では物言いがついて、もしかして朝乃山の左足先が土俵の外に出ていて負けていたんじゃないの,と思う一番で朝乃山は勝ちという判定を頂きました。更に栃の心の右足踵は土俵の外には出ていたものの土俵外の土には着いていなかったのではないの、という感じで、この1番は6分を超える長い協議の末に朝乃山の勝と判定され、朝乃山は今場所ついていたようにも思いました。
- 審判長の阿武松親方の度重なる間違った説明には驚きました。物言いの後の協議の説明についてどうしてあんなに間違えてしまうのでしょうか。物言い協議の後どっちが勝ったのか判らないような説明であり、阿武松審判長の斜め後ろの自席から「どっちが勝ったんだ!」と怒鳴ったら、改めて言い直していました。その他にも「西力士の勝ち」なのに「東力士の勝ち」と言ってしまったこともありました。審判長はマイクを持たされると異常にあがってしまうのでしょうか。場所後の横審で矢野委員長が色々と苦言を呈していましたが、職務不適格だと思わざるを得ません。
- 千秋楽には呼び出し「次郎」が妙義龍と呼ぶべきところを「高安」と呼んでしまいました。お客さんから「高安だろう!」との声がありましたが、時すでに遅く行司さんが対戦相手の逸ノ城の名前を呼んでしまっており土俵の隅で小さくなって蹲踞の姿勢で控えていました。次郎は音痴ですが土俵つくりは上手いと評判で我慢していますが、これって何とかならないものでしょうか。
- 千秋楽はトランプ大統領騒動です。いつもなら午後2時半か3時ごろに国技館に着くように行くのですが、厳重警戒だと聞いていたので1時半ごろに行ったのですが「チケットを持った人は列に並んで下さい」とのお達しで国技館の改札のところから江戸博の入り口で折り返し、さらに50メーターぐらいの列の最後尾に付きました。当日は天気も良く暑い中約1時間は並んでいたのではないかと思います。私が入場した時に列は国技館入り口で更に折り返し両国駅まで続いていたそうです。入り口はいつものように2か所だけで行列を待たせていました。もう少し入口を道路側に出せば4か所ぐらいに出来て、また行列も早く整理出来たのにと思いました。相撲協会は管理・運営能力が著しく欠如しています。
大統領夫妻と安倍首相夫妻は5時ごろに入場しました。正面最前列の升席が取り外され、緋毛氈の上に特設されたソファーに座りました。場内は騒然とした雰囲気でしばし相撲はそっちのけでした。取り組みが終わってもトランプさんはどっちが勝ったのか、何が起こったのか判らなかったみたいで遂に拍手は一回も見られませんでした。トランプ杯を朝乃山に渡す時だけは上機嫌でした。初めは靴を脱ぎたくないとごねていたようですが、結局、靴のようなスリッパを履いて土俵に上がりました。
今場所私は11日間お勤めをしました。全体を通して相撲協会の管理・運営能力の不充分さ、教育の不徹底さが目につきました。トランプさんの我儘はこの程度なら、差し当たって北朝鮮の恐怖から解放されているので仕方ないかなと思っています。
結果として私は今場所の過労で風邪を引き場所後3日ぐらい寝込んでしまいました。

トランプ大統領は何が行われているのか判っていないようでした。安倍首相はつまらなそうでした。左下の私だけが楽しそうに笑っていました。
Newsweek誌より引用 ( Newsweek 2019/06/11 )
名誉教授の独り言(201) 人生100年時代(2)
更新日 令和1年5月10日
合格した千葉大学医学部は天国でした。毎日が楽しくて仕方ありませんでした。多少麻雀の事を知っている友人がいて4月中にその友人の下宿で4日か5日連続で麻雀合宿をしたら隣人にうるさいので出て行けと言われ、私の実家の軽トラを借りてきて引っ越しをしました。5月の連休には、別の友人の叔母さんの軽井沢の別荘に行き麻雀合宿をしました。
始めてドイツ語の授業を受けて外国語は2か国語ぐらい話せたら良いと考え、その為に「ドイツ文化研究会」に入部しました。授業での講師はNHKのドイツ語講師をしていたグライル先生でした。グライル先生に結構かわいがられたこともあり、英語の会話は出来るようにはなりませんでしたが2間の医学進学過程での勉強でドイツ語を少しは話せるようになりました。でも、今では単語は少し出てきますが、話すことは出来ません。夏には千葉大学医学部が所有している山中湖畔の学生寮にグライル先生は合宿に来て下さいました。夏とはいえ冷たい湖水の中,平気で泳いでいたのを記憶しています。
田舎の実家にはどうしてだか判りませんが庭に卓球台があり、少しは慣れていたので卓球部に入りました。卓球部では全く目が出ず、5年生の時に1度だけ公式戦にダブルスで出させてもらいました。走るほうだけは走っていました。冬には余り沢山雪が積もったところを見たことが無かったのでスキー部に入りました。初めて万座に行った時にすっかり雪で覆われている景色を見てびっくりしました。スキーも上手くなりませんでした。滑っても曲がれないのでノルディクの方に回されました。それなりに楽しいものでした。リレーで私の前を滑ったクラスメートがスキー板を折って取り変えてきたのには驚きました。
学業の方は授業も楽しかったですが、成績もマーマーでした。卒業するまでに全科目1回の試験でパスする人はあまりいないようで教授選に立候補した時に医学部事務の人から、「学生時代は割と成績良かったんですね、」と言われました。
学生時代で最も印象深かったのは「山中寮委員」です。3年生の夏から4年間, 7月、8月はほとんど山中寮で過ごしました。山中寮は山中湖畔の広大な敷地に千葉大学医学部学生の自主管理寮があり、食事は市川の女子短大生が給料なしで作ってくれ、委員1年目は早朝に起きトイレ掃除など大変でしたが、楽しい毎日を過ごしました。楽しかったし、余り勉強しないでも合格点を頂けたので、余り勉強はしませんでした。卒業時は学園紛争の真っただ中で、我々は最後のインターン生となってしまいました。ここは勉強しなければと思い国立第一病院(東一)のインターンに応募しました。学園紛争中でインターンボイコットの風が吹き荒れ、東一でのインターン生の応募が少なく、幸いにして東一でのインターンが決まりました。そこでは学力不足を実感し、必死で勉強しました。その結果何とか医者になることが出来ました。
医者になってからもう52年目です。来週の誕生日で78歳です。まだ、2週に3日医者をさせてもらっています。医師免許証は一度取得すれば死ぬまで有効であり、大変有難いと思っています。このまま人生100年まで持つでしょうか。